5日目(6月29日)
函館(レンタカーにて、修道院、松前、江差を散策)- 新函館北斗 - 東京 - 新宿 - 町田
(5日目の行程。 GPSロガーを使って、ログデータから実際に移動した場所を表示。 青色が実際に移動した軌跡。
なお、新函館北斗-東京間は省略)
本日はJR函館駅でレンタカーを借りて、2つの修道院(トラピスチヌ修道院とトラピスト修道院)、松前、江差をまわり、JR新函館北斗駅
でレンタカーを乗り捨て、北海道新幹線で東京に帰宅という日程である。
五稜郭公園付近のホテルをチェックアウトし、JR函館駅まで市電を使ったが、この日はあいにく朝から雨の天候であった。
函館駅にあるお土産店でたくさんのお土産を購入後、朝8時にJR北海道が営業している駅レンタカーの営業所で手続きを行う。
大人の休日倶楽部パス所有者は、お土産店で(全商品ではないが)1割引の特典があり、駅レンタカーも同パス所有者は料金が割引となるので
メリットが大きい。 しかし今回のレンタカーに付属のカーナビの地図データが古く、「新函館北斗駅」は登録されておらず旧名の「渡島大野駅」
と入力する必要があるのには少し驚いた。
雨降りの中、最初の目的地である「トラピスチヌ修道院」には40分ほどで到着。トラピスチヌ修道院は日本初の女子観想修道院として
1898(明治31)年に創立されたが火災で焼失し、現在の聖堂は1927年に再建されたものである。 ここで修道女たちが共同生活を送っているが、
観光客が立ち入ることができるのは前庭、売店と売店に併設する資料室であり、修道女たちが生計を立てる収益事業として製造するマダレナケーキや
クッキーが売店で販売されており土産物として人気となっている。 この日は雨にもかかわらず、外国人を含め多くの観光客が来ていた。
トラピスチヌ修道院-トラピスト修道院-白神岬の写真
次に函館駅方面に引き返し「トラピスト修道院」へと向かう。トラピスト修道院は1896(明治29)年創設された日本最初のカトリック男子修道院で、
修道院に続く約800mのポプラ並木は観光ポスターなどで有名な光景であるが、ポプラ並木を抜けると固く閉ざされた門があり、観光客はそれ以上
先には行くことができない。中では修道士たちが外界との接触を絶ち毎日神に祈りを捧げ自給自足のために働く生活を送っている。こちらの修道院も
自給自足の生活の糧にするためトラピストクッキーやトラピストバターを作っており、駐車場敷地内の売店で購入することができる。
なお、事前に予約すれば男性に限り修道院内部を見る事ができるようである。 トラピスト修道院を出発する時、自動車運転用のメガネの小ネジが
外れている事に気が付いたが、松前方面に向かう途中の木古内市街で国道沿いにホームセンターがあったのでメガネネジ用ドライバーを購入し、何とか
しのぐ事ができた。
木古内から国道228号線を走り松前へと向かう。 元横綱千代の富士の故郷である福島町を通り北海道最南端の白神岬に到着。残念ながら小雨の
天候だったので本州側の竜飛岬も見ることができなかった。 さらに20分ほどの行程で松前市街地には正午過ぎに到着。
函館駅を8時過ぎに出発したが、思ったより松前は遠く、更にこのあと約65km離れた江差に行く必要がある事と、雨降りで散策に不向きである
事より、松前の観光は松前城と松前藩屋敷の2カ所に絞る事にした。
(松前町散策。 GPSロガーのログデータで実際に移動した場所の軌跡を表示)
桜の名所として有名である松前城は、1606(慶長11)年に松前家の初代藩主・松前慶広がこの地に築城したが、その後の火災や修築などを経て、
十七世藩主・松前崇広は1849(嘉永2)年7月10日、外国船の出没に備え津軽海峡の警備強化を図るため、幕府から築城を命ぜられ、城主大名になった。
この城は 1854(安政元)年9月に完成し松前福山城となり 1941(昭和16)年に国宝に指定された。戊辰の役や開拓使の取り壊しや太平洋戦争にも
かろうじて残った松前福山城天守閣であったが、1949(昭和24)年6月5日未明に松前町役場から出火した飛び火により焼失してしまった。
現在の天守閣は町民の切なる願いと、全国からの善意により1961(昭和36)年に再建されたものである。
松前城から車で5分ほどの松前藩屋敷は、藩政時代の松前の姿を再現したテーマパークで、ここに再現された江戸時代の町並みは全部で14棟であり、
うち1棟はお土産店という、こじんまりとした趣のあるテーマパークになっている。しかしこの日は雨降りだったこともあり、観光客は15名ほどと
寂しかった。
松前町の写真
次に、国道228号線を北上して江差へと向かう。江差には14時過ぎに到着。最初に、漁業・商業・回船問屋を営んでいた横山家の家屋を訪ねたが
現在は一時閉館していたので開陽丸記念館へ行く事にした。ここは観光客用のインフォーメーションセンターを兼ねており15時から江差追分会館で
江差追分に実演を行う、との情報を入手できたので、江差散策は開陽丸→江差追分開館→旧中村家住宅→旧檜山爾志郡役所→旧JR江差駅跡、の順に
まわる事にした。
(江差町散策。 GPSロガーのログデータで実際に移動した場所の軌跡を表示)
開陽丸はオランダより導入された江戸幕府の軍艦で、最新鋭の主力艦として外国勢力に対する抑止力となることが期待されたが、1868年(明治元年)
の 11月15日 に江差沖において暴風雨に遭い、座礁・沈没してしまった。1975年(昭和50年)、江差町教育委員会によって世界初となる水中・産業考古学
の対象として発掘・調査プロジェクトし、多くの遺留品の引揚げられ江差町に史料館として開陽丸が復元された。船内は乗組員の様子、貴重資料、遺物
など約 3000点が展示されている。
江差追分は北海道の民謡で、江差町が発祥の地となっている。地元では衰退したニシン漁の代わりに江差追分で町おこしをしようと奮闘しており
今では毎年「江差追分全国大会」が開催されるほど知名度が上がってきている。江崎追分会館ではこの本場の江差追分を会館の百畳敷ホールで聞く
ことができ、私もタイミング良く江差追分を生で楽しむ事ができた。
旧中村家住宅はニシン漁全盛時代を今に伝える廻船問屋で、家屋は当時江差と北陸を往復していた北前船で運んできた越前石を積み上げた土台に、
総ヒノキ切妻造りの大きな二階建て。さらに母屋から浜側まで文庫倉、下の倉、はねだしまで続く通り庭様式で、当時の問屋建築の代表的な造りと
なっている。昨日北海道開拓の村で「はねだし」の展示物を見たが、こちらの方が構造が良く理解できた。
なお、この旧中村家住宅から横山家へ向かう道は「いにしえ街道」と名付けられており、古い建物が並んでいるところである。
白と青緑色の趣がある建物の旧檜山爾志郡役所(きゅうひやまにしぐんやくしょ)は、北海道庁の出先機関である郡役所と警察署の業務を執り行なう
建物として、1887(明治20)年に建てられ、その後は檜山支庁と江差警察署の合同庁舎、江差警察署の単独庁舎、江差町役場の分庁舎などに使用されて
きたが、現在はこの明治時代の貴重な建物は江差町郷土資料館として活用されている。
最後に 2013 年にはまだ営業していて、その後廃線となったJR江差線の終着駅の旧江差駅跡へ行った。幸いな事にレンタカーのカーナビ地図は
古く、JR江差駅がまだ登録されていたので、迷わずに来ることができた。 現在ここは「旧江差駅資料展示室・地域交流館」となっており線路も
撤去されていた。 ここは江差市街地から少し離れた高台にあるので、江差町民にとってはあまり便利ではなかったように思われる。
江差町の写真
江差から新函館北斗駅までは約1時間の行程で、新函館北斗駅には17時40分頃の到着。 レンタカーを返却し、軽食をとった後、新函館北斗 18:36
発のはやぶさ38号に乗り、東京に 23:04 に到着。 重いお土産を抱えて自宅に着いた頃には日が変わっていた。
大人の休日倶楽部パスによる北海道(層雲峡・網走・函館・松前・江差)旅行記 TOPにもどる