3日目 10月15日(木)
 松本(松本市内散策)- 長野 - 越後川口 - 水上 - 高崎 - 新宿 - 町田(自宅)




  (第3日目の行程   GPSロガーを使って、ログデータから実際に移動した場所を表示。 赤色が実際に移動した軌跡。)


 この日は、松本 11:09 発の長野行き電車に乗る事になっているが、それまでの間は松本市内散策ができるので、ホテルを 7:30 頃にチェックアウト
 した。国宝松本城も旧明智学校も松本駅から徒歩圏内なのはありがたい。 松本城の天守入場は 8:30 からで、8:00 前には松本城公園に着いたので、
 公園周辺を一周したり、旧明智学校の方へと足を延ばしたりして、のんびりと散策した。 松本城には、アジア系外国人もたくさん観光に来ていた。
 旧明智学校の開館も 8:30 だと思い込み、先にこちらを見ようと思ったが、私の思い違いで 9:00 開館だったので、再び松本城公園へ引き返し、
 松本城天守へ上ることにした。 松本城の天守からの眺めは金網越しとなり、昨日の犬山城とは大きく異なっていたが、天守からの眺めは良く、
 松本市の市街地を一望できた。

 松本城天守の入場券を買えば、松本市立博物館の入場券も付いてくる。 この博物館は松本城関連の最新の発掘資料も展示されているので、松本城を
 もっと詳しく知りたい人には参考になると思われる。また、博物館には松本市の各観光施設の個別パンフレットが用意されていて、観光情報の入手には
 最適と思われる。再び、旧明智学校の方へと向かう。 途中、現在の明智学校からは子ども達の元気な声が聞こえてきたが、運動会の練習であろうか。

 旧明智学校は、明治6年(1873年)に開校された、日本で最古の小学校の1つで、建物は和洋混交の擬洋風建築である事が特徴で、当時の廃仏毀釈で
 廃寺となった部材が使われているとの事である。 また、旧明智学校は、開明学校(愛媛県西予市)および岩科学校(静岡県賀茂郡松崎町)と姉妹館
 提携を結んでいる。私はどちらの学校にも行った事があるが、どれも古い学校校舎は趣があって興味深い。
 旧明智学校の隣りに旧司祭館という小さな可愛い2階建ての建物があるが、これは明治22年(1889)にフランスのクレマン神父によって建築された西洋館で
 各部屋には暖炉があり、1・2階ともにベランダを備えているなど、今では珍しい純西洋館となっている。

 再び、松本城公園へ戻り、更に松本駅の方向に歩いて行くと、女鳥羽川を挟んで両側にレトロな風情のある中町通りと縄手通りの商店街がある。
 中町は過去の再三にわたる火災から守るため、なまこ壁の土蔵が多く作られ、今でもこの土蔵造りの家が残っているため、レトロな雰囲気を醸し出して
 いるようである。中町には、物差しや枡などが多く展示されている「はかり資料館」があるが、今回は残念ながら時間の関係で割愛した。
 中町通りは自動車の通行も可能であるが、縄手通りは自転車と歩行者専用の道の両側に約40の店が並んでいる。縄手通りのシンボルはカエルで、商店街の
 両端にカエルの像が設置されている。昔は女鳥羽川の水辺から蛙の声が聞こえ商店街も賑やかだったが、川の汚染等で蛙の声も聞かれなくなったので、
 街の人達が昔の賑やかさに帰る(かえる=蛙)ように、との思いでカエルの街と命名したとの事である。

 松本駅に戻る途中の、松本市時計博物館に立ち寄る。この時計博物館は、時計収集家の本田親蔵(ほんだちかぞう)氏が古時計コレクションを松本市に
 寄贈して、その後市民から寄贈された時計も含めて、2002年に開館したものである。館内では日本のものだけではなく西洋の時計も展示されており、
 多くの時計は実際に動いていた。古い時計なのでメンテナンスが大変のように感じ、同時に博物館側の努力も伝わってきた。
 更に松本駅に向かう途中には花時計公園があり、園児達が母親と遊んでいたが、花は季節外れのせいか花はあまり咲いていなかった。



   (松本市内散策 GPSロガーのログデータで実際に移動した場所の軌跡を表示)


   松本市内の写真

 松本駅前で早めの昼食として信州そばを食べ、11:09 発の長野行き普通電車で長野へと向かう。松本-長野間の篠ノ井線は初めての乗車である。
 途中、日本三大車窓の1つの姨捨(おばすて)駅からの眺めを楽しむ事ができた。姨捨駅はスイッチバックとなっているので、この駅を通過する
 特急電車ではこの眺望は見られないのだろうか。 また各駅停車の旅の良いところを発見した気分である。 ちなみに残りの2つの車窓は、
 九州の肥薩線の矢岳越えと北海道の旧根室本線の狩勝峠であるが、後者は新線に切り替わっているので、残念ながら今は見る事ができない。

 長野から飯山線のディーゼルカー(気動車)に乗り換える。正確には途中の豊野までは旧信越本線(現しなの鉄道)の電化区間で、豊野から飯山線
 に入る。 飯山線は、千曲川沿いに走るのどかなローカル線で、替佐(かえさ)駅では列車が到着すると唱歌「ふるさと」のメロディーが流れ
 びっくりした。ここは、「ふるさと」「春がきた」「春の小川」「朧月夜」などの文部省唱歌を作詞した高野辰之(たかのたつゆき)の生地で、
 近くに高野辰之記念館もあるが、駅から遠いので鉄道ファンには残念なところである。
 のどかなローカル線の飯山線であるが、JR東日本では2014年から飯山線に「おいこっと」という名の観光列車を走らせた。コンセプトは「日本人の
 こころのふる里を巡る旅」をテーマにした列車、との事である。更に、この線の主要駅である飯山駅に今年(2015年)の春から北陸新幹線の駅が
 できたので、今後この飯山線がどのように変貌するのか、注目したいところである。
 飯山駅から約1時間半ほどで十日町駅に到着した。 この駅は北陸新幹線が出来る前は北陸地方へのメインルートで多くの特急電車も走っていた
 北越急行ほくほく線との乗り換え駅でもある。JRの飯山線からほくほく線のホームを見ると、まるで在来線と新幹線のような感じがする。
 十日町から約30分で飯山線の終点の越後川口駅に 15:47 に到着し、4分の接続でここから越後中里行きの上越線へ乗り換える。

 上越線では、この時間帯は小出、六日町という主要駅で通学の高校生が多く乗り降りして、それなりに列車は賑やかであった。
 越後中里の手前の石打は石打丸山スキー場があるところであるが、今の時期なのかもしれないが石打駅のホームを見る限りさびれたような雰囲気が
 漂っていた。この電車は越後中里行きであるが、途中の越後湯沢駅で下車し、軽く夕食をとることにした。北陸新幹線ができたおかげで、ほくほく線
 経由の越後湯沢-金沢間の特急電車がなくなり、お土産店には人がほとんどいないのではないかと危惧したが、それなりに人はいたので少し安心した。
 以前も新幹線の乗り継ぎ客は越後湯沢駅では途中下車はしないし、やはりこの駅は冬のスキー客がメインと思われるので、北陸新幹線の影響は
 思ったより少ないのかもしれない。

   松本から越後湯沢までの写真

 越後湯沢発 17:54 の水上(みなかみ)行きの電車に乗車する。何と、この電車が水上までの最終電車である。 越後中里-水上間は新潟県と群馬県
 の県境を通るためか、ローカル線の主要客である高校生も乗車することがなく需要が少ないので、運行本数が少ないと思われる。
 川端康成の小説「雪国」に出てくる「国境のトンネルを抜けると、そこは雪国であった」がまさにこの場所である。
 水上からは高崎行きの電車に乗り、高崎で乗り換え、赤羽まで行き、赤羽から埼京線で新宿へ、新宿から小田急線で玉川学園前まで行き、自宅には
 23時前に到着した。


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