6月11日(日)
社用で、大阪で開催される国際会議に出席する事になり、週末に久しぶりに
奈良大和路散策をする予定で、8日間有効の、奈良・大和路フリーキップを
購入し、新横浜発9:50の「のぞみ81号」で京都に向かう。東海道新幹線
は、完全に「ひかり」から「のぞみ」に主役が交代した感じで、新横浜から
京都まで約2時間と、昔に比べてスピードアップしたように思う。
京都からは、13:20発のJR「みやこ路快速」で奈良に向かう。奈良・
大和路フリーキップだと、JRでも近鉄でも気ままに自由に選択できて便利
である。この後JR桜井線に乗るため、今回はJR線を選択した。このJR
奈良線は、ところどころ単線で、しかも宇治を経由するので、近鉄に比べ
時間がかかり運賃も高いが、快速電車を走らせて近鉄並みの所要時間にして
頑張っている感がある。
JR奈良駅から10分の接続で、JR桜井線に乗り換え、帯解寺に向かう。
JR桜井線の電車は大半は2両編成のワンマンカーであり、小さな駅(つまり
ほとんどの駅)では1両目の後ろのドアしか開かず、また車両も良く揺れる。
近鉄の各停電車の方がよっぽど乗り心地が良い。
帯解寺はJR奈良駅から2つ目の帯解駅から徒歩3分くらいの近いところに
あり、ちょっと立ち寄るには便利なところである。この寺は、今から約千年前、
55代天皇の文徳天皇の皇后である藤原明子が、永い間お子様が生まれず、大変
お悩みの折、祖神春日明神のお告げによって帯解子安地蔵菩薩にお祈りされた
ところ、まもなく御懐妊し後の清和天皇を安産され、文徳天皇は喜んで、
天安二年(858年)春、更に伽藍を建立になり寺号を改められ、帯解寺と勅命
された、との事である。 従って、この寺には安産祈願者が多く参拝する
ようで、この日もお腹の大きい女性(+旦那)のカップルが多く、私には場違い
のような感じだった。従って、私はこの寺の本尊である地蔵菩薩像は拝観せず、
境内だけを見てこの寺を後にした。
帯解寺の写真
帯解から、JRに乗り、桜井経由で高田まで来て、高田からは王寺経由の
JR難波行きの区間快速電車に乗り、天王寺から大阪環状線に乗り換え、
大阪城公園前で下車し、木曜日までの宿泊先である、ホテルニューオオタニ
にチェックインした。 その後、パソコンのマウスを忘れた事に気がついた
ので、でんでんタウンがある日本橋界隈を散策し、夕食はJR難波駅ビルの
トンカツ屋でひと口ヒレカツ定食とビールを頂いた。美味しかった。
6月13日(火)
午前の会議が11時頃終わり、13時までの昼休みを利用して大阪城公園を
歩き、大阪城の天守閣に登る事にした。大阪城は豊臣秀吉が着工し安土桃山
時代を象徴する城であるが、1615年の大阪夏の陣で陥落し、現在の物は、1931年
に再建されたものを1997年に大改修した物である。天守閣の中は8階建ての建物
となっており、5階まではエレベータが運転されている。地上約50mの高さ
しかないが8階の展望台からは360度のパノラマが楽しめた。この日は日差しが
強かったが、展望台は(クーラではなく)自然の風が当たりとても気持ちが良かった。
この天守閣は各階ごとにいろいろな展示があるが、午後の会議に間に合わなくなる
ので、展示はちらっと眺めただけで大阪城天守閣を後にした。
大阪城と大阪城公園の写真
この日は、夕方会議が終わった後、ホテルから大阪城の北側を通り、天満橋、中之島
公園、天神を通り、梅田まで歩いてしまった。JR大阪駅の駅ビルでの回転ずし+
ビールがこの日の夕食となった。
夕方の大阪散策
6月14日(水)
午後の会議への出席が必要なくなったので、四天王寺と通天閣まで足を伸ばす事とした。
JR大阪環状線の大阪城公園から天王寺まで行き、天王寺の駅ビルで昼食を済ませた
後、四天王寺を目指して歩く。 四天王寺は593年に聖徳太子が建立したと言われている
寺であるが、今まで何回も火災に遭い、再建を繰り返してきた。現在のものは第二次
世界大戦後に建てられたものである。ヨーロッパの石の文化と違い、日本はいわば
木の文化なので、どうしても火災の被害を受けやすく残念なところである。四天王寺
の掲題は自由に散策できるが、五重塔、金堂、講堂の3点が一直線に並ぶところは
拝観料を払う必要がある。特に五重塔は、中に入ることができ、らせん階段を登って
上まで行くことができる、と聞いてさっそく登ってみた。塔は仏の遺骨を安置するため
の建物であり、普通は入ることができないのであるが、今回初めて入る事ができたのは
ラッキーであった。ここの五重塔は途中、いろいろな壁画があり、塔の上からは市街の
展望も楽しめた。 塔を降り、救世観音がある金堂を見た後は講堂に入った。この講堂は
夏堂と冬堂の2つに別れ、夏堂には阿弥陀如来像、冬堂には十一面観世音菩薩を祀っている
が、大物が2つあるのは珍しいように思う。
四天王寺中央伽藍の写真
私は、これらの中心伽藍の他に、宝物館と本坊庭園も見ることができる共通拝観券を購入
したので、次は宝物館へ向かったが、途中の掲題の中で六時堂という、供養や納骨等を
行う四天王寺の中心道場があるが、その前の池にたくさんの亀がいたのにはびっくりした。
宝物館は全くの期待はずれであった。ガイドブックには国宝が何点かあることになって
いるが、それらは一切見ることができず、これで入場料をとるというのはどうかと思う。
しかし、逆に本坊庭園は、とても気持ちが落ち着く良いところであった。この庭は、
二河白道(にがびょくどう)という喩話を基に作られたとの事で、二河(水の河と火の河
で、どちらも生き地獄を表す)の間の白道が見えれば、これをたどって行き天国にたどり
着ける、との事。 この庭の遊歩道が白道なので、入場した人はみな天国へ行けるようで
ある。 途中、松下幸之助さんが寄贈した和松庵という茶室も趣があって良かった。
四天王寺本坊庭園(極楽浄土の庭)の写真
この庭園でのんびりしすぎて時間が無くなったので、予定していた天王寺公園はパスして
通天閣に向かう。 通天閣と言えば、坂田三吉の事を歌った「王将」が有名である。
作詞:西條 八十 作曲:船村 徹 唄:村田 英雄
1.吹けば飛ぶような 将棋の駒に 懸けた命を 笑わば笑え
生まれ浪花の 八百八橋 月も知ってる おいらの意気地
2.あの手この手の 思案を胸に 破れ長屋で 今年も暮れた
愚痴も言わずに 女房の小春 作る笑顔が いじらしい
3.明日は東京に 出て行くからは 何が何でも 勝たねばならぬ
空に燈が付く 通天閣に 俺の闘志が また燃える
将棋一筋に貧困とすべての逆境を克服した坂田三吉は、大阪人の土根性の偉大さを
世間に示した、という偉業をたたえ、通天閣の下には彼の王将碑がある。
通天閣は「天に通じる高い建物」という意味のようである。しかし高さは103m
しかない。 ただし、市街地の真ん中に建っているため、360度の展望が楽しめ
とても楽しい。遠くに大阪城が見えたが、さきほど行った四天王寺がどこにあるのか
が良くわからなかったのは少し心残りであった。 この通天閣のもう1つの名物が、
ビリケンさんという名の合格祈願や縁結びの福の神である。ただし、この日は
北海道へ「出張中」であった。
通天閣の写真
通天閣から恵美須町の方に向かう途中、「新世界」という名の商店街があった。
しかし、16時という時間帯のせいであろうか、活気が無くさびれたような感じを
受けた。地下鉄恵美須町駅に着くと、そこは日本橋デンデンタウンの始まりで、
今週日曜日に散策したコースを、再び歩いた。
6月16日(金)
会社の仕事が14時頃終わり、近鉄線で奈良に向かう。前にも泊まった事がある、
新大宮駅前の「スーパーホテル奈良」に16時半頃チェックインし、西大寺と
大和郡山城跡に向かう。近鉄大和西大寺駅から歩くとすぐに「歴史の道」の標識が
あり、左手が西大寺、右手が秋篠寺と記述されていた。左手の西大寺の方に進み、
西大寺の北門から境内に入る。ここは2年前にも来たが、今回は東塔跡の石段には
ロープが張られていて入る事はできなかった。17時を過ぎ、拝観時間は終了して
いるので、今回もまた境内の散策のみとなった。大昔は東大寺と対抗できるほどの
大きな寺だったが、今は石畳の境内にはサラリーマン姿の人も見られ、奈良市民の
通勤路になっているのだろうか。
西大寺から近鉄線に乗り、大和郡山駅で下車。次に目指すのは、郡山城跡である。
途中、道に迷いつつ、ブラスバンドの音が聞こえる郡山高校のそばを通り郡山城跡
に着いたが、このあたりはひどくさびれている感じであった。ここは桜の名所であ
るので、桜のシーズンは賑やかなのであろうか。しばらく歩くと、いかにも城内に
ふさわしい格好の建物があったが、よく見るとこれは市民会館であった。
ここから追手門を出て、郡山城跡をあとにし、再び大和郡山駅に戻る。ちょうど
天理行きの電車が来たので、これに飛び乗る。来た電車に気ままに乗れるのも、
「奈良・大和路フリーキップ」のおかげである。天理駅前に、D51の蒸気機関車
が展示されてあった。昔JR桜井線で活躍したものらしい。
帰りはこのJR桜井線で天理から奈良まで行ったが、JR奈良駅から近鉄新大宮駅
まではそれほど遠くなかったので、結局歩いてホテルに戻った。
このホテルは、昨日までのホテルニューオオタニとは比べものにならないが、
LANによるインターネット接続が無料だったので便利で良かった。
西大寺と大和郡山城趾の写真
6月17日(土)
今日は、天気予報が「曇り、ところにより一時雨」という事だったので、葛城古道を
歩く事にした。ここは別名「西の山の辺」とも言われ、古代の豪族が行き交った古道
であるが、このコースは拝観料をとるような寺院も派手な見どころも無いところである。
葛城古道の出発点は、御所(ごせ)駅である。御所はJR駅と近鉄駅があり、当然賑や
かで栄えているのは近鉄駅の方であるが、「奈良・大和路フリーキップ」ではJR御所
はフリー区間内なので、まずはJR御所駅をめざす。
ホテルのある新大宮から大和西大寺で乗り換え、八木西口駅で下車。ここから徒歩5分
程度で、JR桜井線の畝傍駅に着く。JRの電車に乗り、高田で和歌山線に乗り換え
2つ目が御所駅である。御所着8:36。 JR御所駅と近鉄御所駅は地図で見るとすぐ
隣り合わせのように見えるが、実際は踏切を渡って小さな商店街のアーケードを通って
5分ほどかかり、さらにバスの乗り場を探して、などで時間がかかり、8:46分のバス
にぎりぎり何とか間に合った。
バスに約15分ほど乗り、船路(ふなじ)で降り、ここから約10分ほど歩いて
船宿寺(せんしゅくじ)に向かう。 ここは行基が開いたといわれる古寺で、境内の
池泉回遊式庭園が有名で、ツツジやサツキの時期はとても綺麗との事である。掲示板
で、眺めの良いところがある急な坂のコースを選んだ。途中確かに眺めが良いところが
あったが、お墓があるところに出てしまい、ここで行き止まりだったので、引き返し、
普通の参道の方からお寺の境内に入ることになってしまった。私が訪れた6月中旬は
境内には花も咲いていなく、訪れる人もいなく、しかも天候といえばすぐにでも雨が
降り出しそうな曇り空だったので、早々に引き上げる事にした。
船宿寺の写真
ガイドブックでは、次は風の森神社であったが、場所が良くわからないまま、田園風景
を背景に歩いていると、その次の高嶋神社に着いてしまった。この神社は昔この地方で
活躍し葛城王朝とも関係が深かった豪族である鴨氏の守護神をまつった神社である。京都の
上加茂神社や下鴨神社など全国の鴨神社の総社との事であるが、訪れる人もなく静けさに
包まれた古寺の様相といったところだ。 高嶋神社の隣には、葛城の道歴史文化館、が
あり、葛城の道の写真パネルや出土した土器や壺などが展示していた。
高嶋神社の写真
ここから、次の高天彦(たかまひこ)神社までの道のりは、舗装された広い道路を、
約30分以上ひたすら歩くことになる。天候も、傘を出したりしまったり、といった
感じで一向に晴れる気配がない。広い車道から別れ、今度は急な山道のような上り勾配
の道を歩き、ようやくオレンジ色の瓦が特徴の高天彦神社に着く。この神社は4〜5
世紀に活躍した葛城氏の祖神をまつるものである。葛城氏は身内を后に出し大和朝廷と
も関係が深く、当時はこのあたりに勢力を持っていたようだが、このさびれた神社を
見る限り当時の面影は感じられなかった。
高天彦神社を後にして、10分ほど歩くと橋本院に着く。橋本院は行基が養老年間
(717年〜724年)に開いた高天寺の子院の1つであるが、当時のものは全て焼失し
この橋本院だけが1677年に復興されたとの事。中には十一面観音が安置されている
との事であったが、中から子供の声が聞こえ、普通の田舎の家という感じであった。
中は見ずに庭だけを散策したが、庭には男の子の像もあり、広々としたのどかな光景
であった。
高天彦神社・橋本院の写真
橋本院から極楽寺までの道は、最初は急な下りの山道が多くひたすら歩くとやがて
視界が広がり、まるで登山で下山したような感覚であった。極楽寺は951年に興福寺
の一和が開いたといわれる古刹である。 しかし境内には人影もなく、名前の割には
寂しい雰囲気が漂っていた。
極楽寺から次の長柄神社までは距離が離れていて、約40分ほどの道のりである。
途中、住吉神社、佐田公民館を通って、元代官屋敷の中村家住宅(ただし非公開)
まで来たところで、本格的に雨が降り出して来た。長柄神社は極楽寺に比べはるかに
小さな神社であった。
極楽寺・住吉神社・長柄神社の写真
次に葛城一言主神社に向かう。この神社の神様は一言の願いは何でもきいてくれる
との事であるが、今の世の中自分の願い事を一言で表現するのは難しいものだ。
この神社の近くに葛城古道で数少ない食事処が県道沿いにあるのだが、古道の散策路と
県道とは立体交差しており県道へ行く方法が見つからず、昼食は断念し、手持ちの
お煎餅でしのぐ事になってしまった。
葛城一言主神社を出るころには雨も激しくなり、傘をさしていても洋服が濡れるという
悲惨な状態であったが、ここはバスも来ない田舎なので、ひたすら歩くしかなく、
次の目的地の九品寺(くほんじ)に向かう。途中、大和三山が綺麗に見えるという
場所があったが、雨降りなのでもちろん見ることはできなく残念であった。九品寺は
庭が綺麗なお寺であるが、雨がひどくなったので入口からちらっと眺めて、すぐに
立ち去る事にした。 後は六地蔵や鴨山口神社がこのコースになっているが、雨が
ますます激しくなり場所を探す気力も失せてしまっているので、櫛羅(くじら)バス
停まで急ぐ。運良く10分程度の待ち時間でバスが来たので、びしょびしょの状態で
バスに乗り込み近鉄御所駅に向かう。近鉄御所駅からJR御所駅まで歩き、和歌山線
の吉野口駅まで行くと、近鉄の吉野線の電車と接続していたので、吉野口−橿原神宮前
−大和西大寺、と電車に乗り継ぎ、西大寺で早い夕食をとり、びしょびしょの状態で
新大宮のビジネスホテルに夕方たどりついた。
九品寺の写真ほか
6月18日(日)
この日も朝方は今にも雨が降りそうな天候であったが、まずは予定通り談山神社へ
向かうことにする。新大宮−大和西大寺−大和八木−桜井、と近鉄線を乗り継いで、
談山神社行きのバスが出ている桜井駅まで行き、9:05発のバスに乗り込む。
登山客と思われる10人程度の中年のグループもバスに乗ってきたが、このような
天候で登山とは気の毒である。このグループは途中で下車したが、私は終点の
談山神社で降りた。
ここは学生時代に一度来て、談山神社の下にある多武峰ユースホステルに泊まり、
山道を明日香村の石舞台まで降りた事があるが、その時の詳細は全く覚えておらず
最近記憶力の衰えが顕著になってきており、少しばかり情けなくなってしまう。
談山神社は、大化の改新で有名な中大兄皇子と藤原鎌足が会談したところ、と言われて
おり、歴史上も重要な神社である。談山神社の境内ではなんと言っても木造の十三重塔
が有名である。神社の境内から、「御相談所」と「御破裂山」に続く山道が延びており
時間もあったので、両方行く事にした。「御相談所」は、中大兄皇子と藤原鎌足が
大化の改新について相談した場所と言われているところで、「御破裂山」には藤原鎌足
の墓といわれている古墳があるところである。雨は止んだが「御破裂山」山頂からの
展望は残念ながら霧に覆われて楽しむ事ができなかった。
再び本堂に戻る。たまたまこの期間、「足の観音さま」といわれている秘仏の談峯如意
輪観音像が特別公開されていた。説明によると、「この観音像は、藤原鎌足の長男・
定慧和尚が唐の国から持ち帰ったものを、鎌倉時代に摸して作られた二代目です。右足
の甲にある傷は、信者の身代わりになったと伝え、別名 足の観音さま ともいわれて
います。古くから足腰や膝の病に霊験あらたかなみ仏です。」となっていた。
お守りも売っていたので購入した。
談山神社の写真
談山神社から桜井駅行きのバスに乗り、聖林寺で下車し、国宝十一面観音像で有名な
聖林寺に向かった。この寺の本尊は子安延命地蔵菩薩で安産・子授け祈願であり、
十一面観音像は明治時代に別の寺から移されたものであるが、こちらの方が国宝に
指定されている。ミロのヴィーナスと比較されるほどの仏像彫刻、という評判である
ほど美しい仏像である。以前は直接見る事ができたが、今はガラスケース越しでしか
見ることができないのは残念である。
聖林寺を後にして、徒歩で阿倍文殊院へ向かう。 しかし、手持ちのガイドブックに
従わず現地の案内標識に従って行ったら途中でルートから外れてしまい、たいへんな
遠回りをしてしまった。文殊菩薩を祀っているためか、さすがに合格祈願の絵馬など
が多かった。ここの本堂に本尊の文殊菩薩騎獅像があるが、何故か抹茶付きの拝観料
という事だったので、お茶のたしなみが無い私は本堂へ入るのを諦めた。
聖林寺・安倍文殊院の写真
阿倍文殊院から街中の賑やかなところを通り桜井駅に着き、桜井−大和八木−大和郡山
へと近鉄電車で向かう。一昨日大和郡山駅周辺を歩いたので、バスターミナルへも
迷わずに行く事ができた。次の目的地は、今あじさいが満開の矢田寺である。
あじさいのシーズンの休日には20分毎に臨時バスが出ているが、どれも満員で、
矢田寺境内も人の山であった。ほとんどの人が仏教にも古代史にも興味がなく、
あじさいの花を見るだけの為に来ているように思われるが、確かに約7000株も
あるあじさいの花は見事だった。
矢田寺の写真
ふたたびバスで大和郡山駅にもどり、近鉄電車で大和西大寺−近鉄奈良まで来て、
奈良公園の猿沢池や興福寺五重塔や公園の鹿などを見ることにした。今回2年ぶり
の奈良散策は最後は奈良公園で過ごしたわけだが、最終日の午後からは晴天になり
いろいろと思い出深いものとなった。
猿沢の池・興福寺・奈良公園の写真
近鉄線で大和西大寺経由で京都へ向かい、新幹線で新横浜についたのが22:30頃で
ワールドカップの日本−クロアチア戦が始まった時だったので、街中の人通りは
いつもの日曜日より少ないように感じた。
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